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貴重資料コレクション

2022年4月1日更新

青山延于と青門肖像について

青山延于(あおやま のぶゆき)は諱を延于、字は子世、通称量介、雲龍又は拙斎と号し、安永5年(1776)水戸藩士青山延彝の子として生まれました。立原翠軒に教えを受け、寛政6年(1794)に彰考館に入り、文政6年(1823)総裁に任ぜられ、また、弘道館の創設にも関わり初代教授頭取となりました。主な著書に「大日本史」を簡略化した「皇朝史略」「続皇朝史略」があります。天保14年(1843)死去。享年68。墓地は常磐共有墓地。

青山家は水戸藩の文教面で活躍をし、長男延光、四男延寿も弘道館に勤め、特に延光は父と同じく弘道館教授頭取に任ぜられています。また、本務のほか田見小路(現大町3丁目)に私塾(家塾)を開いて子弟の教育にもあたり、今回電子化した「青門肖像」は延于の家塾の様子が生き生きと描かれている資料です。

「青門肖像」は、天保10年(1839)10月に延于の次男佐藤延昌(佐藤中陵の養子)が、延于の門下生90人の肖像を描いたものです。名前があるのに肖像画が無いのが4人、肖像画があって名前が無いのが6人、また、この時代に流行した天然痘を患ったあとを数人の者に見ることができます。塾生は上が14、5歳から下は7、8歳の少年が読み書きを学び、農民・商家の子弟も入ることができました。序文では、延于を中央にして勉学に励む塾生の様子と、延于不在時の代理教師の延昌では、遊び盛りの集団のためか治まりがつかなくなった様子をありありと彷彿させるものです。延寿の孫、山川菊栄が「覚書 幕末の水戸藩」で序文部分を次のように記しています。『家君この時に当って座の中央に在り。一たび之に教うるや、則ち群童皆な恐懼(きょうく)、左手に墨を執り、右手に筆を執り、案に憑(よ)り、書を学ぶこと終日にして倦(う)まず。また一言も出だす者なし。家君一日家に在らざれば則ち然らず。語る者あり。笑う者あり。喜ぶ者あり。怒る者あり。啼(な)く者あり。(略)吾ここにおいて臂(ひじ)を振い、目を開いて大いにこれを叱る。曰く子等何すれぞ書を学ばざる、吾必ず之を罰せん。群童意気自若、懼(おそ)るる色なし。笑って言う者あり。曰く子は先生に非ず、先生に非ず、黙々たる可なり。吾等先生の命に非ずんばあえて筆を執らず。』(ルビを加えてあります。序文原文は漢文です。)

参考図書
「水戸の先人たち」 水戸市教育委員会
「肖像画の魅力」 茨城県立歴史館
「覚書 幕末の水戸藩」 山川菊栄著 岩波書店
「水戸藩学問・教育史の研究」 鈴木暎一著 吉川弘文館

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