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貴重資料コレクション

2022年4月1日更新

菊池幽芳について

菊池幽芳(きくち ゆうほう)は本名を清といい、明治3年(1870)10月27日、水戸市長町(ながちょう)(現在の五軒町3丁目と栄町1・2丁目)に水戸藩士だった父庸、母きくの長男として生まれました。上市小学校(現在の五軒小学校)から茨城中学校(茨城第一中学校、水戸中学校を経て現在の水戸一高)に進み、優秀な成績で卒業しましたが、家庭の経済事情で高等学校へ進学することができなかったため、取手町(現在の取手市)の高等小学校に代用教員として赴任しました。取手での教員生活は3年でしたが、その間文学に親しみ、初めての小説「蕾(つぼみ)の花」が水戸の新聞に掲載されました。また「文学者として身を立てる覚悟」を明らかにしています。

明治24年(1891)、同郷で中学校の先輩でもある大阪毎日新聞社社長兼主筆の渡辺治(台水)に白羽の矢を立てられ、「新聞記者もたしかに私の憧れの一つ」であったため、教師をやめて転職することになり大阪に移りました。当時大阪毎日新聞は渡辺社長の主張で、新聞紙上における小説の役割を重視しており、社内には小説を書く記者も少なくありませんでした。そのような環境のもとで幽芳は小説家としてスタートすることになります。明治24年12月に最初の作品「片輪車(かたりんしゃ)」が「大阪文芸」に掲載され、その後大阪毎日新聞紙上に「己が罪」、「乳姉妹(ちきょうだい)」等を連載して好評を得、大正14年(1925)に、今回自筆草稿を電子化した「小夜子(さよこ)」を最後に筆をたつまで30余年にわたって活躍しました。

幽芳の小説は「家庭小説」と呼ばれ、「今の一般の小説よりは最少し通俗に、最少し気取らない、そして趣味のある上品な」、「家庭の和楽に資し、趣味を助長し得るようなもの」をめざし、不幸な運命の人が、数々の事件、悲劇をのりこえて必ずハッピーエンドに終わるといったものでした。また、オリジナルのものは少なく、大部分は英仏文学からヒントを得たものでしたが、文体や構成は独自のものに換えられていて明記されなければ気付かないようなものでした。当時は絶大な人気を誇り、昭和5年(1930)6月21日のいはらき新聞(現在の茨城新聞)には「新聞小説で斯くの如く人気を呼んだものは嘗てなかった」、学校の修学旅行には「これが菊池幽芳先生のお邸(やしき)ですと引率の先生が説明した」と紹介されています。また、演劇、映画の原作になることも多く、「小夜子」も大正15年(1926)に映画化されたことがわかっています。

幽芳は新聞記者としても活躍し、公害に対する認識があまりなかった時代に、九州門司の「浅野セメント降灰問題」を大阪毎日新聞で報告して問題解決に導き、ついには取締役に就任しています。大正15年に相談役となり社友に退き、以後は短歌や菊づくりを親しむ生涯を送りました。昭和22年(1947)7月21日死去。享年76。墓地は水戸市光台寺。


参考図書
「近代文学研究叢書61」 昭和女子大学近代文学研究室著 昭和女子大学近代文化研究所
「菊池幽芳全集」 菊池 幽芳著 日本図書センター
「常陽芸文1992年1月号」 常陽芸文センター
「毎日新聞百年史 1872-1972」 毎日新聞百年史刊行委員会編 毎日新聞社

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