烈公徳川斉昭の医療政策について

『山海庶品』の成立については、水戸藩第9代藩主烈公徳川斉昭の医療に対する積極的な姿勢を抜きに語ることはできません。水戸藩の医学は、藩政前期には主に義公徳川光圀の奨励によって盛んになりましたが、後期になると、寛政前後から文化文政期にかけて、原南陽の実証的医学の導入によって、大きな進歩をとげました。天保改革期になると、水戸の医学はいっそう発達し、士民の生活向上に大きく寄与しました。その中心となったのが地方の郷校と弘道館の医学館ですが、それを支えたのは烈公斉昭のさまざまな政策でした。特に、天保6年に烈公は有名な「医弊説」を書いて、医薬が「保命の大具」であることを強調すると共に、その大具をあずかる医生(医学生)が、名利に走る現状を痛烈に批判し、その宿弊の除去を説き、医療界の改革を主張したのでした。また、医薬について深い関心と知識は、前彰考館総裁で通事の青山拙斎の次男延昌(量平・松渓、佐藤中陵養子)の労症(肺結核)、勘定奉行川瀬教徳の舌疽、彰考館総裁豊田天功の歯齦の病気、藤田東湖の中風などについて、病名によって薬方を写して遣わしたという話によく表れています。しかも、製薬の参考にし、薬を辺境の農村にも広めたいとの思いから、「景山奇方集」や「景山和薬集」などの著作を自ら著しています。

烈公が設立した弘道館は開館後たびたび施設を拡張していますが、その中でも医学館新設が最大規模でした。それ以前にも医学を学ぶ場は藩内各地に点在していましたが、医学館は総合的医学教育の場としてだけでなく、中央医療機関として重要視されて建設されました。医学館には本草局・蘭学局・製薬局・調薬局が置かれ、予防医学として種痘の研究や実施も行うようになりました。烈公は医学館講堂に掲げた自選自書の「賛天堂記」で医学館設立の趣旨を説明しています。日本の風土が温暖で生活に適しているために、人心は仁厚で義勇なると説き、古代は自給自足できた。しかるに「中世以降」外国と通商するようになると、奇を好む日本人の弊害が助長され、なんでも外国品がよくなり、薬でも日本産のものを捨てて、かえりみないのはなんたることか。外国の薬は高価であるから、富貴の人でなければ手にはいらない。だが高貴の者だけが長命で、貧賎の人が短命だ、ということは聞いたことがない。それにしてもいったん外国と国交が断絶したならばどうなるのか。結局外国品を買う資金があるならば、金を外国に渡すよりは、その金を使い、良薬を国内で製するのがはるかによい。そうすれば外国の良薬がはいらなくとも、少しも心配はない。こうした考えを実践するため、弘道館に医学館を設け、医生をして医学を研究し、医薬を精製させようとしている、といって最後に「嗚呼我が国中(水戸藩)より、推(お)して天下に及ぼさば、則ち神州の神州たる所以を知るに庶(ちか)からん」(読み下し)と結んでいます。烈公はその考えを実践するために、医薬品を精製する参考に『山海庶品』を編纂させ、弘道館に医学館を設けたのです。

こうした考えから建設された医学館では、村と町の病人が願い出れば藩内の医者に治療させるほか、薬も無料で与えていました。そして村や町の医者の中に医術を修業したいと思う者は、藩医やその子弟たちに混ざって自由に学ぶことができました。彼らへの講釈は毎月11日と21日の2回の定めでしたが、この2回のほかにも修業のために医学館に出入りすることが許されていたのです。

さらに、くわしくお知りになりたい方は『水戸市史 中巻3』を参照してください。

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