佐藤中陵について

佐藤中陵(1762~1848)は名を成裕(せいゆう)、通称を平三郎、号を中陵、あるいは菁莪堂、温故斎と称しました。江戸青山に生まれ、本草学者である父親の佐藤端義のあとを継いで若くして本草学者として名をなし、既に20歳の時には薩摩に招かれ、さらに白河、上杉、会津、松山などの諸侯の招きに応じ、全国各地を訪ね、本草学の調査及び講義を行いました。また、長崎に遊学して西洋の本草学を学んだり、紀州熊野などを訪れています。そして、寛政12年39歳の時、文公徳川治保(はるもり)の時に水戸藩に仕えました。その後、武公徳川治紀(はるとし)、哀公徳川斉脩(なりのぶ)に仕え、「飼籠鳥」20巻等を著しました。列公斉昭が第9代藩主に就任した翌年の天保元年(1830)に、斉昭に命じられ、江戸彰考館で『山海庶品』の編纂を開始しました。天保7年3月には水戸に移り編纂を継続し、天保12年の弘道館開設後、天保14年に医学館が新設されてからは、事業をそこに移して編纂を続けました。中陵自身は医学館開設直後、82歳で弘道館教授となり、嘉永元年87歳で水戸でなくなっています。

1762(宝暦12) 江戸青山に生まれる
1781(天明元)20歳薩州候に招かれる
1783(天明3)22歳母の病によって薩摩を辞して江戸に帰る
1792(寛政4)31歳備中松山候に招かれて松山に赴く
上杉候の聘に応じ、米澤に至り好生堂において2年間本草を講ずる
1793(寛政5)32歳3月上杉鷹山公の御前に召されて諸国物産の話をなす
10月江戸へ帰る
1795(寛政7)34歳会津候の聘に応じ、物産発地の事に任じ、『阮怒艸+浸}誌』『附子霎ヲ』『金薯録』の三書を作り、これを献じる
1796(寛政8)35歳備中松山候の聘に応じ、松山に行き、封内28村を巡回する
1797(寛政9)36歳10月4日長崎を発し、天草温泉山、阿蘇、彦山、羅漢寺、宇佐を経て小倉、11月2日赤間関に入り、9日大阪に至る。数日大阪にあって諸名家を訪ね、その後紀州大和各地を廻り、伊勢に詣で、東海道を経て、江戸に帰る
1800(寛政12)39歳文公徳川治保の時に水戸藩に仕える
1801(享和元)40歳7月9日水府の塩子村を出て野州に入り太田原黒羽に行く
1805(文化2)44歳武公襲封
1816(文化13)55歳哀公襲封
1829(文政12)68歳烈公襲封
1830(天保元)69歳斉昭の命により、『山海庶品』の編纂を開始する
1841(天保12)80歳弘道館竣工
1843(天保14)82歳6月28日弘道館中に医学館を開き、中陵本草教授となる
1844(弘化元)83歳順公襲封
1848(嘉永元) 6月6日水戸で没す。享年87。

活字で読むことのできる著作
*「中陵漫録」(『日本随筆大成 第3期 3』吉川弘文館、1995に収録)
*「五瑞編」(『日本農書全集 45』農山漁村文化協会、1993に収録)
   きのこの栽培法について

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